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「不偏不党」「公正中立」は批判を封じ込める呪文?

京都新聞にマスコミが安倍政権の締め付けに屈服していることを取り上げた記事が掲載された。とても興味深いので転載させてもらう。 記事の中で特に注目したいのは「不偏不党」「公正中立」という一見自明のスローガンが、実はメディアが権力の攻撃を避けるために、自らの主張を封印する便法にすぎなかったと指摘している点だ。 白虹事件とは、大正デモクラシーの先頭にたって米騒動やシベリア出兵批判などを繰り広げていた大阪朝日新聞が遭遇した筆禍事件で、大阪朝日は権力や右翼の攻撃に屈しトーンダウンすることになる。新聞側にも落ち度があったこと、社長が退陣したことなども含め、昨今の朝日叩きに酷似している。 『京都新聞』2014年12月16日付(朝刊) 「現実抉り出す視点 示せたか 報道の自己検閲は自殺行為」  ジャーナリズム史 根津 朝彦  14日に投開票された衆院選で、 与党は定数の3分の2を超える議席を得て大勝。長期 政権への足場を固めた安倍晋三首相は宿願の憲法改正にも意欲を示 した。折しも来年 で敗戦から70年。選挙で示された民意、そして「戦後レジーム( 体制)からの脱却」 を図る安倍政権の今後などを5人の研究者にさまざまな視点から論 じてもらう。   ×  ×  知らないうちに自己検閲をしていないだろうか。 自民党がテレビの選挙報道に事実 上圧力をかける文書を送付したことが話題となったが、 今回の与党の総選挙圧勝を受 けて、言論機関の役割をいま一度考察しておきたい。 ■批判の鋭さ弱く  大半の新聞は特定秘密保護法や原発再稼働の行方に疑問を投げかけ てきた。しか し、全体的に批判の鋭さは弱く、読者に届いていない。 政権が自民党であろうが、民 主党であろうが、 強大な政治権力を握る与党を監視する批判は厳しくて当然である。  新聞で重要なのは、読者に訴えかける見出しである。 安倍首相が集団的自衛権の行 使容認を表明した時、『東京新聞』は一面トップで「「 戦地に国民」へ道」という刺 激的な見出しを掲げていた。しかし、 他の多くの新聞でもそうした言及は文中にあっ ても、目を引くものではなかった。  そこで想起したいのは「不偏不党」の歴史である。 自由民権運動から、米騒動の報 道禁止に反発したうちの一社である『大阪朝日新聞』 が筆禍で狙い撃ちされた白虹事 件に至る過程で、新聞が掲げるようになった

カカオ価格の上昇はコートジボワールに平和と繁栄をもたらすか

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コートジボワールのカカオ生産が好調だ。政府によれば農民の所得は昨年比で24%上昇しているという。これは大変なことだ。年収300万円のサラリーマンが70万円以上増収になったのとおなじことだ。 http://www.news.abidjan.net/h/507839.html?n=507839 主な原因はカカオ豆の国債価格が上昇していることのようだ。実際に価格の長期推移のグラフを探してみたところ、次の図が見つかった。 出典 http://ecodb.net/pcp/imf_usd_pcoco.html このグラフをみると、80年台を通して低下と底値での停滞が続き、2000年から再上昇していることがわかる。政治面では1999年にクーデタが勃発、長い内戦を含む混乱が始まる。 コートジボワールは、世界最大のカカオ生産国であり、経済はカカオ生産に大きく依存している。経済がそのまま政治に反映するわけではないが、影響があることは否定出来ないだろう。そこでこれに政治的な動向を重ねてみる。 政治危機の端緒であるクーデタは底値の時期と一致している。 次いで国際価格が再上昇する10年間、内戦が続き、一度ピークアウトした直後の2011年に内戦が終了している。 まず、価格の下降期・停滞期は、高価格を背景に形成された政治体制が、価格低下に伴いゆっくりと矛盾を蓄積していき、その最終的崩壊がクーデタだった、という仮説がたてられそうだ。 次に、内戦の継続に価格上昇は影響したのか、それとも戦時には国際相場に農民は対応できなかったのか、そのあたりは今後の研究に待つしかない。 さらに、12年以降の価格再上昇が現政権の安定にプラスであることは間違いないだろう。 最後に今後価格が再び下落に向かうのか、さらなる上昇期に入るのか、これは誰にもわからない(個人的には前者の可能性が高いと思うが)。いずれにしろ、現ワタラ政権の安定、西アフリカの経済拠点としてのコートジボワールの復活に、カカオ価格が大きな影響を及ぼすことは間違いないだろう。 付け加えておくと、カカオ価格が直接政治や社会に影響するわけではない。誰がカカオを栽培するのか、どこにどのように作るのかなどの「媒介変数」を考慮する必要がある。 具体的には、原生林を切り開いてのカカオ栽培地の拡大、周辺国からの労働移動が、

「ゴジラ」(2014)は「ゴジラ」(1954)のリメークではない

これは「ゴジラ」(第一作、1954)ではなく二作目の「ゴジラの逆襲」(1955)のリメークと見るべきだろう。 ひょんなことからロードショウー中の「ゴジラ」を見てきた。ゴジラ第一作のみがホントのゴジラと信じる私にとっては、これは第一作のカバーとはいえない。 第一作の観客は、広島・長崎、そして大空襲の記憶がなまなましい人々であり、核実験の死の灰に脅かされ、なにより米ソ冷戦の緊張、起こりうる核戦争の恐怖を感じている日本人だった。 そこに現れたゴジラは、こうしたトラウマと不安を体現した怪物であり、わたしたちの力ではどうすることもできない巨大で不条理な力だった。ゴジラは何の感情も意図もなくひたすら破壊を続け、映画は戸惑い逃げ惑う人々の視点で撮られていた。 9歳のわたしには、ひたすら恐ろしい映画だった。 高度成長の60年代に入ると、ゴジラは子供向きの怪獣ショーに変質していく。生意気ざかりの少年、やがてひねくれた青年となるわたしには、馬鹿らしいだけで見る気もしないシリーズが延々と続くことになる。 第二作は恐怖の王が道化へと転換するはじめの一歩だった。第一作の恐ろしげな作りは維持されたものの、第一作を覆っていた恐怖と無力感は消え失せて、単に恐ろしさを煽るだけの映画となっていた。それは映画の作り手よりも、観客の変質に寄るものだったのだろう。 そして同時にゴジラがアンギラスと闘うことによって、怪獣プロレスショーへの道を開いた作品でもあった。 ハリウッド第二作目の「ゴジラ」予告編は、第一作を意識した終末の恐怖を感じさせるものだった。しかし私が本編に観たのは、むしろ「ゴジラの逆襲」と多くの共通点が見られる映画だった。 監督ギャレス・エドワーズの出世作「モンスターズ」は、9・11以降の暗い絶望感を色濃く反映した秀作だったが、「ゴジラ」にはそうした雰囲気は見当たらない。そしてゴジラはアメリカを救い、最後は救世主として拍手で送られる。 アンギラスを殺してもなお、日本を破壊し続ける第二作のゴジラよりもさらに「怖くない」のだ。 すでに他の怪獣からゴジラが地球を守る続編が構想されているという。ハリウッド製ゴジラは恐怖と破壊の王ではなく、トランスフォーマーやパシフィック・リムの系統をひく、そして日本製ゴジラの末路を繰り返すシリーズになりそうだ。 なお、この