レ・ミゼラブル、見てしまった

いやー、泣かされた。早い段階でアン・ハサウェイが顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら歌う時点で隣の女性はもう泣いてた。やばいな~と思っていたが、わたしも最後は大泣き。泣くポイントはひとそれぞれだけど、どれかには引っかかる可能性があるので、これから見る人はハンカチをお忘れなく。

実は見る前にかなり警戒していた。ミュージカルの一番大事なメッセージがかき消されているのではないかと恐れていたのだ。

このミュージカルは異色だ。個人ではなく民衆が主役、現代世界の激動の幕開けを背景に、「貧困者たち(レ・ミゼラブル)」の化身たちの苦闘と悲劇を描く。

原作は共和主義者ビクトル・ユゴー、ミュージカルの作者たちは68年革命の当事者たちだ。レ・ミゼラブルは、彼らが贈る壮大なメロドラマであると同時に、最底辺の人々への連帯の歌なのだ。

ハリウッドはどこまで「貧困者の反乱」に寄り添うのか?

そもそも映画というメディアは民衆を主人公にすることに向いていない。ミュージカルではいつも、民衆が舞台にいて、装置を動かし、時に自ら歌い、「これは私たちの物語だ」と訴え続けている(これはブレヒトが発明した方法だ)。

さて始まってみると、映画は個人のドラマで泣かせることと、民衆劇との間で揺れ動き続ける。

基調は主人公(たち)の憎しみ、孤独と愛の物語だ。映画のほとんどは彼らの顔をアップにして観客を引き込む。見事な演技だ。しかし、主役の民衆と真の舞台、社会と時代は後ろに隠される。

他方で、映画の冒頭は受刑者たちの壮大な(遠景の)映像で始まる。どん底の貧困者たちは、稀にだが、画面を占領する。そして、その時は生きる地獄への恨みをハイテンションで叩きつける。これもまた見事な表現だ。

大写しと遠景、個人と民衆、熱情と歴史、映画の二面性は、最後に象徴的に現れる。

ジャン・バルジャンの荘厳な死が観客の涙を絞り切ったと思われた後に、突然、挫折した革命の歌が高らかに鳴り響く。画面には決起したパリ市民の勇壮な姿が(再び遠景で)立ち現れる。

舞台ではこれは当然の連続性だが、映画では、ハッピーエンドのための取ってつけたご都合主義に映る。

まあごちゃごちゃいっても、散々泣いたので、星は沢山上げたいと思う。

さらに蛇足をいえば、映画発表のタイミングは、時代を射抜いていると思う。世界は資本主義創成期に似てきているからだ。

ひと握りの富める人々と膨大な無権利の貧困者=周辺化された人々との分裂は、現代世界そのものだ。パン一切れのために地獄のような刑務所に閉じ込められるジャンバルジャン、工場長の一言で職を失い命を落とすファンティーヌ、児童労働を強いられる孤児コレット、かれらは世界中にいる。

超現実的な演出(唐十郎にならって)が許されるなら、わたしはこんなふうにこの映画を終わらせたい。

スクリーンが消え失せ、「出口」と表示される。泣きはらしたわたしたちが外へ踏み出すと、そこはフィリピン、またはナイジェリアのスラム(あるいは西成のあいりん地区か深夜のマクドナルド)が広がっている。

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