ほんとうの復興とは

外国のメディアには「驚くべき速さで復興」という記事がある。
http://www.facebook.com/l.php?u=http%3A%2F%2Fwww.dailymail.co.uk%2F&h=b4784

この記事には被災直後と現状を比較する写真がいくつか載っている。これらをみるとたしかに「すごいなー」と思う。

しかし、なにかが違うと感じる。報道で暮らしの再建のめどが立たない、先の見えない苦労に直面する被災者像を見ているからだ。むしろ遅い復興へのいらだちは、私だけでなく国民全体の感情ではないだろうか。

一体どちらが本当なのだろうか。復興は早いのか、遅いのか。

実はこの問は、「復興とはなにか」というもっと大きな問に繋がっている。この大きな問に答えるには、私たちの中に二つの復興観が混在していることに注意しなければならない。被災者の暮らしと、物理的な「街の再興」という二つの復興観だ。復興が早いとみるか遅いとみるかは、実はどちらの復興観に立っているかで大きく変わる。

私が被災したと考えてみよう。ここで「被災」というのは広い意味だ。つまり行政に被災者として認定されているかどうかには関わりなく、何らかの震災から被害を受けていれば、ということだ。その場合私にとっての復興とはなんだろうか。安心して、未来のある暮らし(わたしは高齢なので、まごの未来を思っての「未来」であろう)が出来る時だと、私は思う。

復興というと「震災以前に戻る」ということと捉えがちだ。

しかしそうだろうか。「被災した私」にとって、いろんなことがもとに戻るのは、たしかに居心地がいい。しかし、100%元に戻ることはそもそも不可能だ。なくなった家族は戻らない。では、せめて70%、80%へと努力することがマストなのだろうか。

私だったら、職は変わっても収入が高くなってればそれでいい。家は建て替わり、住所が変わっても、より便利で快適なら文句はない。心の傷は癒せなくても、働きがいと安定した収入をえる道があり、語り合える友がいて、よりよい明日を夢見られるならば、そして「あの時は挫けそうだったが、よくここまで来たなあ」と震災直後を振り返れるならば、それがわたしにとっての「復興」だと思う。

瓦礫が撤去され、ライフラインが復旧することは大切だ。ただそれが自己目的化しては困る。さらには復興が、高台への街づくり、堤防、道路、工業団地などハードの公共事業と取り違えられては、それは全くの見当違いだ。

街の再建は、被災者にとっての復興を助ける一要因に過ぎない。職がなく、生きがいを失い、不便で一時的で粗末な仮設住宅しか選択がなく、日々の暮らしさえおぼつかず、将来の道を描けないとしたら、街が再建されてもなんの意味があるだろうか。実際、被災者へのアンケートでは、必要な支援のトップは雇用であり、瓦礫の撤去のランクは低かった。

被災者は一人ひとり多様で、その夢は予測不可能で、かれらの努力は政治家や役人の創造力を越えている。役所や政治は、本質的にひとりひとりの努力を応援することに適していない。そのためお金をハードなことに使うことばかり考える。

仮設住宅に入所した被災者の生活保護を打ち切る動きがあるという。暮らしの復興のために苦闘する被災者にとって、これは本末転倒ではないだろうか。大きなショックを乗り越えるには、もっとも大事なのはかなりの(生活保護を越えた)お金、それも長期にわたって定期的・安定的に支払われるお金だ。ついで、そのお金を活かすための仕組み(転居や創業、事業再建、職探し、事業再建、職業訓練、進学などの技術的サポートと融資)や、それを支えるインフラが必要となる。逆ではない。

復興とは人の復興であり、モノの復興は人を支えるためのものだ。これを忘れないでほしい。

コメント

このブログの人気の投稿

イノベーション続くcash transfer(現金移転)

現金移転cash transferは貧困をなくせるか:ザンビアでの調査1

カカオ価格の上昇はコートジボワールに平和と繁栄をもたらすか