原発事故に「専門家」ありは研究者の役割を考える

原発事故以降。専門家、研究者、学者、呼び名はなんであれ、ある分野でこの社会で最も深い知識を持つ人々の役割について考えてしまう。わたしも研究者の端くれであるからなおさらだ。

TVで話す研究者はいかにも「御用学者」だ。政府の政策づくりを手伝うのはよいが、それにまみれ、東電のスポークスマンとなり、事実よりも政治的配慮(無用のパニックを防ぐ)のとりことなり、結果としてごまかしに権威付けを行っている。

他王、反原発派の人々は、政府と御用学者の嘘を暴くという役割から、未だに抜け出せない。

全国民が原発のあらゆる側面の専門家になることは不可能だ。専門家とは、そうした社会的必要が生んだ分業の一員だ。特定の分野での社会の脳となり、社会の一人ひとりが判断をくだすため、情報を提供する義務がある。一見非生産的な仕事から所得を得ることができるのは、そのためだ。

今求められているのは、自分の能力を振り絞って、人々に有用と思える情報を発信し続けることだ。インターネットはそれを可能にしている(おそらく、かれらにネット上のフォーラムを提供すべきだし、それを用意するのは、彼らでなくてもよいのかもしれない)。

繰り返ずが、研究者の使命は、権力の下請けやいちじくの葉になることでも、自分の意見を権力が取り上げないことに憤ることでもない。人々のほうを向くこと、人々の利益のために自分の能力を使うことだ。

こうした役割は、原発に関わる研究者だけに与えられているのではない。すべての研究者に共有されるものだ。原発危機が、こうした役割をくっきりと浮き上がらせているのだ、

研究者を志望する若者が、こうした役割を自覚する機会はあるのだろうか。

振り返って、わたしはなにをしてきたのだろうか。たまたまこの世界に紛れ込んだに過ぎないというのは言い訳に過ぎない。研究者として所得をえ、専門家として発言してきたのだから。

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