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3月, 2011の投稿を表示しています

原発事故に「専門家」ありは研究者の役割を考える

原発事故以降。専門家、研究者、学者、呼び名はなんであれ、ある分野でこの社会で最も深い知識を持つ人々の役割について考えてしまう。わたしも研究者の端くれであるからなおさらだ。 TVで話す研究者はいかにも「御用学者」だ。政府の政策づくりを手伝うのはよいが、それにまみれ、東電のスポークスマンとなり、事実よりも政治的配慮(無用のパニックを防ぐ)のとりことなり、結果としてごまかしに権威付けを行っている。 他王、反原発派の人々は、政府と御用学者の嘘を暴くという役割から、未だに抜け出せない。 全国民が原発のあらゆる側面の専門家になることは不可能だ。専門家とは、そうした社会的必要が生んだ分業の一員だ。特定の分野での社会の脳となり、社会の一人ひとりが判断をくだすため、情報を提供する義務がある。一見非生産的な仕事から所得を得ることができるのは、そのためだ。 今求められているのは、自分の能力を振り絞って、人々に有用と思える情報を発信し続けることだ。インターネットはそれを可能にしている(おそらく、かれらにネット上のフォーラムを提供すべきだし、それを用意するのは、彼らでなくてもよいのかもしれない)。 繰り返ずが、研究者の使命は、権力の下請けやいちじくの葉になることでも、自分の意見を権力が取り上げないことに憤ることでもない。人々のほうを向くこと、人々の利益のために自分の能力を使うことだ。 こうした役割は、原発に関わる研究者だけに与えられているのではない。すべての研究者に共有されるものだ。原発危機が、こうした役割をくっきりと浮き上がらせているのだ、 研究者を志望する若者が、こうした役割を自覚する機会はあるのだろうか。 振り返って、わたしはなにをしてきたのだろうか。たまたまこの世界に紛れ込んだに過ぎないというのは言い訳に過ぎない。研究者として所得をえ、専門家として発言してきたのだから。

逃げるための三つの能力

危機はまだ終っていない。自力で立ち向かうことのできない危機の場合、最善の方法は逃げることだ。だが、逃げるのは実はとても難しい。多くの人がそれを実感しているだろう。 今後の人生を、少しでも逃げやすいように修正するために、若い人には、逃げられる能力をつけるために、これを書く。 モデルはアフリカで知り合ったパキスタンの友人だ。 1. 逃げるのに一番大事なのは、ネットワーク。地理的には、できるだけ広く、できるだけ多くの国に、階層的には、できるだけ多様な職業、趣味、階層の人の間に、知り合いを作ることだ。友人、知り合う人、みんなのアドレスを持つこと、連絡を保つこと、なによりも大事な人だと思ってもらうことだ。snsがあるので、ネットワークを広げることは格段と容易になっている。 ネットワークがあれば、情報が得られる、なにか頼めるかもしれない、場合によっては居候もできるかもしれない。 パキスタンの友人は、日本に留学していた。兄弟はみな違う国に留学し、それぞれの国でネットワークを作っていた。もちろん家族同士は強固なネットワークの中核だ。 2. どこにいってもやっていける汎用性ある能力を身につけること。もちろん特殊技術があれば一番いいが、そうでなくても心配は要らない。実は日本の殆どの人の能力は汎用性がある。日本の会社で事務をしていれば、世界どこでも事務はできる。問題は多くの人が「自分は会社をでたらなにもできない」と思っていることだ。自分の仕事の中に、汎用性のある技術を見つけ、それを磨いていくことが大事だ。 パキスタンの友人が頼っていたのも、特殊な技術ではなく、「どこでも生きて行く能力はある」という自信だった。これがあれば十分というわけでなないが、なければなにもできない。 3.自分(と家族)の利益を絶対に優先すること。付き合いや職場の雰囲気、国情などに飲まれない。職場や、地域、国は滅びても生き延びる覚悟が必要だ。 パキスタン人の友人は、住む国になんの愛情も示さなかったが、これはまずかった。「この国からは奪うだけ」という姿勢から、アフリカ人から嫌われ、略奪の対象とされ、結局は自分の利益も傷つけていた。これは反面教師。 4. この三つがあればよい。他に、あればいい、あればとっても役立つことはたくさんあるが、なくても何とかはなるとおもう。また、すべてあとか

ものを送るより、お金を送れ

国際的な緊急援助では、物資だけでなく現金を配る動きが広がっている。 受け手から見れば、現金は必要なときに必要なものがかえる。場合によっては貯めておいても良い。送る側からすると、調整コストが掛からない。必要なもの(と援助側が判断した物)を買い、運送し、配給するのは大変だ。たいていはミスマッチが起き、また配給の不平等、時には腐敗もおこる。 もちろん、現金をわたして意味があるのは市場が機能している時だけだ。店があいており、商品が棚に並んでいなければならない。またとりあえず貯めておくには銀行のATMも必要だ。今の被災地では、これらが壊滅しているために、役所やNGOが日本中から集まった物資を仕分けし、ストックし、配送し、また現地でストックして仕分け、配給するのに必死となっている。それでもミスマッチは避けられない。 こうしてみると、市場ってすごいと思う。 さらに、こうした配給制度は、被災者の個別のニーズに答えることはできない。家族構成、年齢、価値観、ライフスタイルによって必要なものはことなるが、給食は皆同じパンで、テレビで不足していると取り上げられたものがどっと届く。 ここでも、お金と市場というシステムはすごいと思う。「ミスマッチ」というが、そもそも市場とはマッチングのための巨大で謎の組織なのだ。 こうしてみると、現在の状況でも、物資を送るよりお金を送ったほうがよいことがわかる。被災地外の市場はまあまあ動いているのだから、行政やNGOは物資を購入すればよい。物資で寄付が殺到した場合に比べ、受け入れ、仕分け、ストック、運送までの手間とお金が浮く。これは大きいはずだ。 市場機能はまもなく復活する。そうなったら物資を送るのはむしろ有害だ。現地で購入されるべきものがよそで買われて送られてくるのでは、現地の経済は復興しない。被災者も寄付物資の配給は、生活再建に役立たない。おそらくもらった物資を売りに出すことになるだろう。 ものよりお金を送ることの重要性を述べてきたが、最後に誰に贈るかが問題になる。現在は行政やNGOに送ることが必要だ。被災者が貰っても使えないからだ。しかし、市場が復活してきたら、お金が被災者の手に渡ることが重要になる。被災者自身が、それぞれの生活再建プランに沿って お金を使う必要が出てくるし、また使える条件も整ってくるのだから。したがって

地震について2 逃げることへの社会的圧力

前の投稿から続く ところで、こうした情報分析の偏りに比べると、意思決定の偏りはとても小さいように見える。つまり「逃げる」派は圧倒的に少なく、大半の人は「逃げない派」だ。なぜだろうか。 一般的には、逃げるコストが高いこと(職を失う、他に拠点がないので滞在費が高い、外国では暮らせない、後ろめたいなどの心理的不安、逃げると白い目で見られるなどの社会的制裁、不安を煽ったと批判される等)が最大の原因と考えられる。 一般に受け入れられている言説「最善の被災者支援は、節電、しっかり働く、無駄遣いしない」(そもそもそれらに客観的根拠はあるのか?)や、「なくみんなで耐える」のが日本人の美徳だという説なども社会的圧力の一つであり、逃亡の心理的コスト(あるいは社会的制裁を受けるというコスト)を高めている。 災害のため、ACの道徳CMが増えていることもこうした圧力をより高めているようだ。 しかし、上記のコストの多くは文化的要因に左右される。外資系であれば逃げたという理由で解雇しないだろう(おそらく日本で解雇されても危険が大きければ裁判で勝てるだろう)、子供の発がんリスクと社会的迫害や外国の暮らしへの挑戦コストをどうバランスするかは、明らかに文化的な問題だ。アメリカ映画なら、自分の家族のためにどこまでも逃げていくだろう。 逃げいない多数派は、ではリスクをどう見積もっているのだろうか?これについては私にはよくわからない。推測するに、「みんなと同じ行動をとればリスクは低い」という想定に立っているのではないだろうか。 これは十分な情報が得られないときに、しばしば見られる行動で、それなりの合理性がある。みんながこの行動をとっているのだから、正当な理由があるだろう、またなにかあったら大多数の人々の利益は政府あるいは国際社会が守ってくれるだろうという想定だろう。歴史的には、これは正しい場合もあり、正しくない場合もある。 わたしは、自分と家族の安全を最優先に意思決定すべきだと思う。そのため社会的圧力を感じるし、それは、なんと自分の中にもある。だから余計怖いし、理不尽だと思う。でもそう考えること自体が、とても少数派なのだろうとも思う。 こんなことを書いているうちに、放射性物質の浮遊、飲料水の汚染のため、地域によっては逃げる必要性が高まってきた。「逃げる」コストを引き下げることが、わたしの

地震について、情報の読み方の歪み

アフリカで地震のニュースに接してから2週間、帰国してから1週間が経過した。内外の情報を見ながら、情報をどう読むか、分析をもとにどう意思決定するか、難しさを痛感している。 情報を読む際も、意思決定の際も、自分の特性(性格、世界観、職歴、年齢)などが強い影響を与えるのを感じる。わたしはもともと原発に反対であった。とても臆病だ。へそ曲がりでみなと同じ行動するのを嫌う。多くの国、組織を転々としてきたし、内外に拠点が複数あるので移動性が高い。 この結果、情報分析については、原発についての政府発表に懐疑的で、より深刻に考える傾向がある。意思決定に際しては、リスクが少しでも高まると、原発から遠くに逃げることを選ぶ。みなと一緒に行動する義務感も、それによる安心感も、あまりない。 わたしとは違うが(多くの場合正反対)、やはり強いバイアスを、メディアやネットの書き込み、一般の人の行動などをみていて、感じる。 まず、情報分析に際しては、一方に、「大丈夫」派=原発リスクを低くみる偏りがある人びとがおり、他方に「不安派」=原発リスクを高めに見積もる傾向があるひとたちがいる。ともに各種情報を系統的に歪めて解釈している。 えられる情報の曖昧さも、恣意的な情報分析を助長している。曖昧さの理由は、政府や東電もわからない(原子炉格納容器の中はどうなっているかなど)ことがおおいことと、故意に曖昧にしているのではないかと疑われること(被爆量がどの程度になったら逃げるべきかなど)の両方があるようだ。 情報分析の偏りは、それ自体害があるわけではなく、ある意味当然のことだ。通常は分析の偏りも正規分布を描くはずだ。両端が少なく、中間が厚い、いわば良識が多数派を形成することとなり、安定的な世論が作られる。 ところが、現実のリスク評価は、両極に分裂するM型、対立型になっているように見える。 原因を考えてみると、ひとつは、情報とりわけリスク情報が不十分で、しかも信頼にかけるため、自己防衛に関心が高い人(あるいはハイリスク地域に住む人)にとっては、リスクをやや多めに見積もるのが合理的行動となる。他方社会秩序維持により関心が高い人(あるいはローリスク地域に住む人)には、リスクを低めに評価する動機が強まる。 さらに、リスク評価が対立型であるだけでなく、双方の双方の極端派が、、他派を攻撃す

アフリカ鉱山:中国幻想の終わり?

中国はアフリカの鉱山を買いあさっているように思われているが、Jeune Afrique誌によれば、実際には予想以上に慎重に振舞っているらしい。 鉱山投資のほとんどは少数株主としての参加であり、自ら鉱山開発に乗り出したケースは限られている(経営に手を染めたザンビアなどでは、手ひどい失敗にあっている)。中国にとっても、アフリカは遠く、情報も不足しているからだろう。 http://www.jeuneafrique.com/Article/ARTJAJA2615p055-057.xml0/chine-investissement-mines-mineraismines-la-fin-du-reve-chinois.html

マイクロファイナンス:神話の終焉?

近年マイクロファイナンスへの風当たりが強い。「科学的」調査が進むにつれ、マイクロファイナンスの貧困削減への効果に疑問が広がっている。下のペーパーは否定的な立場からの研究サーベイ。 http://www.odi.org.uk/resources/download/5117.pdf 対案としてあげられているのは、現金移転、マイクロ貯蓄、コミュニティレベルの金融組織などだ。 「客観的調査」が見落としていることも多そうだが、マイクロファイナンスが善であるという「信仰」の時代は終わりつつあるようだ。そしてどんなによいビジネスも、信仰になるのは良いことではない。

テストの点数が上がれば成長率も高い?教育と成長の謎

教育が(とりわけアフリカで)経済成長につながなないのは長年謎とされてきた。教育は労働者の生産性を上げることにより、経済成長をもたらすはずなのに。特に日本人は、自分たちの「成功」が教育の普及のおかげだと信じている これについて、テストの点数と成長率に相関関係があるとする研究があるそうだ。イースタリーがブログで紹介している。就学率だけじゃなくて、テストで良い点をとれるようじゃないと、成長に寄与しませんよ、というわけだ。 http://aidwatchers.com/2011/03/solving-the-education-puzzle-test-scores-anなd-growth/ これに対する書き込みはすべて否定的。こんな単純化は許せん、教育だけで成長を説明できるはずがない、教育内容はどうなんだ........。 この議論は次のことを想起させる:アフリカで教育を考えるときに、就学率をあげることだけをみず、教育について考えることも必要だろう。 例えば、教育とはなんだろうか? マクロ的には、教育が労働者(土地と共同体から切り離された無産者)を作る道具だとすれば、アフリカの教育は労働者をつくることに成功していない。他方、農民の生産性を上げることにも失敗している。また、教育を得ても賃金が高すぎて雇用が作られない。 背景には土地が相対的に余剰であることがありそうだ。援助や鉱物資源によるオランダ病も影響しているかもしれない。

現金移転cash transferは貧困をなくせるか:ザンビアでの調査1

貧困者の三分の二は中所得国に住むという報告書について、前に紹介した。アフリカも成長著しく、ザンビアもこのままいけば遠からず中所得国に。しかしご多分にもれず貧困層はむしろ拡大している。 成長し、政府の懐も豊かになりつつあるのに貧困は増えている。新しい現実に対し、援助ができることはあるのか? これに答える試みとして近年注目を浴びているのが現金移転だ。貧困者に直接現金を配る。貧困者を支援する一番の近道だ。今回はザンビアでその試みを調査する。 貧困者は怠けるのではないか、無駄遣いするのではないかとの疑問は当然だが、実はこれらの疑問にはすでに答えが出ている。現金移転は、ラテンアメリカで制度化され、すでに数千万人を対象に実施済みで、膨大な調査からこうした疑問が杞憂であったことが明らかになっている。 さらに、貧困者の暮らし、健康、教育へのプラスの効果が確認されている。 アフリカでも現金移転は10年ほど前から各地でテストが行われており、ザンビアはそのフロントランナーだ。 わたしは三年前にザンビアの現金移転について紹介したが、その後資料が途絶えていた。今回の調査はこのパイロットプロジェクトがどう発展(あるいは消滅)したかを知ることが目的だ。