だれのいうことも鵜呑みにしてはいけない

先日学生のワールドカフェを傍聴して、参加者の自由な精神を感じられ、久しぶりに良い刺激になった。そこでの反省:

最後に討論の場が設けられ、国際協力についてディスカッションがあった。参加者からはもっともな質問が次々と上がる。日本の援助は役に立っているのか、問題はどこに、解決策はなにか。

わたしも国際協力の研究者なので、自分の見解を述べた。ところが・・・はっと気がつくと、みなへんに静かになり、「納得」しているような(勘違いかもしれないが)気配を感じた。

これはまずいと感じて、ややしどろもどろになってしまった。ワタシの言ったことに確信がなかったわけではない。確信があるからこそ、みんなに理解してもらえるよう一生懸命はなしたのだから。

でもあれはあくまでも「わたしの見解」だ。いかにわたしが信じているにしろ。

どんなにデータを揃えて、精密な手続きをふんで、慎重に分析しても、社会科学でひとつの主張が定説となるまでは、幾年にも渡るさまざまな論争と検証を経なければならない。

加えて、国際協力は価値を排除できない世界なので、学問的合意が成立しないテーマも数多くある。どんなに説得的な議論も、文献も、ひとつの主張として頭の引き出しにしまうだけにしておこう。

研究者以外の人の議論は、その人の価値観や職業的立場によってさらに大きく影響される。長年実績を挙げているNGOのリーダー、何十カ国も訪れた専門家、さらに発展途上国の人々さえも・・・。

かれらのいうことは意味ある何かを伝えるが、かならず彼らの価値観、職業的利害、社会集団固有の習慣などに影響される。また彼らと聞き手の関係にも大きく左右される。NGOリーダーはわたしを折伏しようとするだろうし、貧困者にはわたしは大きな財布を持った白人に映っている。

若者はまずもっとも重要な疑問に突き当たる。こうした疑問は鋭く、本質的で、核心的だが、同時に構造化され、価値に依存し、何万人もの研究者や実務家が取り組んでも答えがえられないものばかりだ。

だから簡単な答えには注意しよう。それは嘘ではないが、正しいものではない。

なによりも、簡単に世界を整理しようとする欲望を抑えよう。仮説を立て、それに基づき実践し、得られた知識で仮説を常に検証しよう。たいていは最初の仮説が急ごしらえでお粗末だったことがわかる。それによって意味のある次の仮説を立てることができるはずだ。

いつも現実と実践と学問から学びながら、古い自分から脱皮しながら進んでいこう。どこかで仮説を事実と信じこみ、しがみついた途端、わたしたちは知識の支配者から、ドグマの奴隷になるのだ。

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