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2月, 2011の投稿を表示しています

専門家を信じるな

チュニジアから始まった革命がアラブ諸国に波及する過程は、専門家の見立ての誤りが暴露されていく過程でもあった。(以下、専門家というときはTVや新聞のコメント欄に現れる多数派の専門家を指す)。 そもそもチュニジア人の多数派は経済成長に満足し、失業者たちも強力な秘密警察のもとで声をあげることは不可能だと言われていた。ベン・アリが権力の座から逃亡する前日夜まで、政権の崩壊を予言した専門家はいなかった。 チュニジア革命のあと、専門家は「エジプトはチュニジアとは違う」とエジプト革命の可能性を否定した。 エジプト革命が現実化した後は、「湾岸諸国は王国だから、首相をすげ替えれば住む」と述べていたが、翌日にはバーレーンのデモが深刻化した。またシリアやリビアの特殊性を述べて、革命の可能性を遠ざけたが、これも翌日には覆された。 かれらは革命防衛隊の存在をあげて、イランには波及しないと述べていたが、どうなるだろうか。 こうした専門家の見立て違いの理由を考えてみよう。第一に、専門家が知識を持っているのは、公式の制度・組織であり、その効率性だ。民衆のエネルギーやダイナミックに立ち上がってくるネットワークは研究対象にならない。前者はデータがあるが、後者はないからだ。 第二に、あらゆる専門家は自分の専門が重要だと考える傾向がある。それが「飯の種」だから当然だ。したがって公式の制度・組織・政治のほうが、自分が分析対象としていない民衆よりも、強力だと考えがちだ。 第三に、あらゆる研究は過去の説明であり、現実と未来の分析には、無力とは言わないが、研究者が(そして第三者も)信じ込んでいるほどには有効ではない。 そもそも、激動期には全ての予測が不可能だ。大きな変化は過去の経路に依存せず、線形の発展はない。眠っていた未知の、しかも最大の社会的力が立ち上がるときだ。そのパワーがいかほどか、どちらに向かうかは誰にもわからない。 既存の組織は溶解し、ミクロの諸個人の、決定の複雑な総合から現れる。それは予測不可能だという点で市場に似ているが、個人は単に商品を選ぶのではなく、生存をかけた自己投機を迫られる。こうしたダイナミズムを分析し予測する方法はない。 専門家は知識を提供することができる。しかしかれら(あるいはわれわれ)に予測を期待するのはやめよう。

軍隊はHIV/AIDSを拡大する装置か?

AIDS, SECURITY AND THE MILITARY IN AFRICA: A SOBER APPRAISAL (ALAN WHITESIDE, ALEX DE WAAL AND TSADKAN GEBRE-TENSAE 2006) http://afraf.oxfordjournals.org/ エイズと軍隊に関する通説に反論したペーパーだ。通説では HIV/AIDS は安全保障の脅威と考えられている。軍隊は感染率が高く、軍は感染拡大により脆弱になる。そして紛争は感染を拡大させ、さまざまな理由から平和を損なうともみなされている。これに対し、著者は次のように主張する。 1.      兵隊の HIV/AIDS 感染率は一般に比べて 常に高いわけではない 2.      軍隊は 一般的に は内部での感染拡大への抑制力がある 3.      戦争が感染を拡大するとは 必ずしも 言えない。ただし戦争に伴う人口移動と静的ネットワークの変化から生じるリスクに注意を向ける必要がある 4.      エイズが国内・地域・国際安全保障を脅かすとの説は、 確かとは言えない 研究手法は体系的な統計分析ではない。十分なデータが得にくいため、分散的な資料(とはいえ、通説が確立された 90 年代よりはずっと充実しているが)からの推定で、通説が信頼に足りるものかを検証するという方法をとっている。 このため、通説に替わる新たな知見を打ち立てたとは必ずしも言えず、通説は 当てはまる場合もある が、 一般化するには相当に疑わしい ことを明らかにしたことに意義がある研究と言えるだろう。 私見だが、限られたデータからの推論が「通説」となったのは当然と感じる。 HIV/AIDS 、軍隊、紛争は全て人々への脅威だ。これら三つが結びつけば、より深刻な脅威となるという説は、私たちの心情に強く訴えるように思う。

幸せは金次第か? 幸福の経済学をめぐる論争とデータ

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発展途上国の村で過ごすと、だれしも「幸せってなんだろう?わたしたちのほうが、ある意味貧困なのでは?」と自問する。 それと関係あるかどうか知らないけど、昨今GDPに替えて「幸せ」について聞く機会が多い。UNDPの人間開発指数はすでに定着しているけど、もっと主観的な幸せを測ろうとする試みが増えている。それだけでなく、先進国の首脳の大半が「幸せ」を政策目標にと語り始めた。ブータンの国民幸福総量重視の政策は注目の的だ。 豊かさと幸福とは関係ないという統計的な分析を示したのは、イースタリンだが、当然これまでいろんな反証の試みがあったようだ。 http://www.worldlingo.com/ma/enwiki/en/Easterlin_paradox 最近も若い研究者(上のURLでも言及されているStevenson and Wolfers)が新しいデータセットを用いで分析し、豊かな国ほど幸せだという結論をだしている。クロスカントリー及び時系列分析ともに「お金があるほど幸せ」だと示している。 http://blogs.cgdev.org/global_prosperity_wonkcast/2011/01/18/the-data-is-in-more-money-more-happiness-justin-wolfers/ 二人はニュースにもでたようで、動画もある。 ペーパーもここからダウンロードできる。データの質と分析をしっかり吟味しないといけないのだろうが、わたしは統計に弱いのでよくわからない。統計はデータの取り方、分析手法で、時には「同二でもなる」ところがあるので、どんなにしっかりした結論のようでも、鵜呑みにはできない。 だれかStevenson and Wolferのペーパーにコメントしてくれる人はいないでしょうか?

新「最底辺の10億人」 貧困者の四分の三が中所得国にいる?! だったら貧困研究はどうなる?援助はどうする?

Andy Summer, 2010, “Global Poverty and The New Bottom Billion: What if three –Quarters of The World’s Poor Live in Middle-Income Countries?”, Institute of Development Studies http://www.ids.ac.uk/download.cfm?objectid=F1D7952B-DE56-E3B4-B7282EC89A733915 貧困者の大半はもはや貧困国の住民ではない。四分の三は中所得国に住んでおり、四分の一だけが貧困国(主にサハラ以南アフリカ)国民だ。これが著者の主張だ。 最新のデータを分析したところ、もはや貧困問題は貧困国の問題ではないという。コーリアが「最底辺の 10 億人」で描いたような、脆弱で紛争にさらされた小国ではなく、中所得の安定した大国に、貧困者の多くは暮らしている。 世界の貧困と闘うには、貧困についての研究、政策、援助は全て見直す必要に迫られる。 まず平均所得をもとにした国の分類は見直されるべきだろう。貧困者の中所得国へのシフトは、四つの大国(インド、パキスタン、インドネシア、ナイジェリア)が中所得国に昇格した(にもかかわらず貧困者が増えている)ことに大きく影響されている。低所得国、中所得国という分類は不適切なのかもしれない。 また国際的不平等から国内格差により注目しなければならないし、それにしたがって、国際的再配分や国際秩序の見直しよりも国内的再配分や国内の政治社会改革が重視されることになるだろう。 これに伴い、援助の役割も変わらざるをえない。中所得国の貧困削減に援助は意味があるか明らかではないからだ。 以上が著者の主張だが、アフリカ研究の観点からは、次の疑問が追加される。まずアフリカは、貧困を抱えたままの新中所得国の後を追っているのか、それともアフリカは古典的貧困問題(国が貧しいから人も貧しい)にとどまっているのか? また成長しつつ貧困を拡大している中所得国の増加は、成長の均霑による貧困削減モデルに疑問を投げかけている。アフリカでも、経済は高成長を維持しているが、貧困者が増加し続けている。これを、成長の初期に不可避のクズネックカーブだと断定するのはむずか

だれのいうことも鵜呑みにしてはいけない

先日学生のワールドカフェを傍聴して、参加者の自由な精神を感じられ、久しぶりに良い刺激になった。そこでの反省: 最後に討論の場が設けられ、国際協力についてディスカッションがあった。参加者からはもっともな質問が次々と上がる。日本の援助は役に立っているのか、問題はどこに、解決策はなにか。 わたしも国際協力の研究者なので、自分の見解を述べた。ところが・・・はっと気がつくと、みなへんに静かになり、「納得」しているような(勘違いかもしれないが)気配を感じた。 これはまずいと感じて、ややしどろもどろになってしまった。ワタシの言ったことに確信がなかったわけではない。確信があるからこそ、みんなに理解してもらえるよう一生懸命はなしたのだから。 でもあれはあくまでも「わたしの見解」だ。いかにわたしが信じているにしろ。 どんなにデータを揃えて、精密な手続きをふんで、慎重に分析しても、社会科学でひとつの主張が定説となるまでは、幾年にも渡るさまざまな論争と検証を経なければならない。 加えて、国際協力は価値を排除できない世界なので、学問的合意が成立しないテーマも数多くある。どんなに説得的な議論も、文献も、ひとつの主張として頭の引き出しにしまうだけにしておこう。 研究者以外の人の議論は、その人の価値観や職業的立場によってさらに大きく影響される。長年実績を挙げているNGOのリーダー、何十カ国も訪れた専門家、さらに発展途上国の人々さえも・・・。 かれらのいうことは意味ある何かを伝えるが、かならず彼らの価値観、職業的利害、社会集団固有の習慣などに影響される。また彼らと聞き手の関係にも大きく左右される。NGOリーダーはわたしを折伏しようとするだろうし、貧困者にはわたしは大きな財布を持った白人に映っている。 若者はまずもっとも重要な疑問に突き当たる。こうした疑問は鋭く、本質的で、核心的だが、同時に構造化され、価値に依存し、何万人もの研究者や実務家が取り組んでも答えがえられないものばかりだ。 だから簡単な答えには注意しよう。それは嘘ではないが、正しいものではない。 なによりも、簡単に世界を整理しようとする欲望を抑えよう。仮説を立て、それに基づき実践し、得られた知識で仮説を常に検証しよう。たいていは最初の仮説が急ごしらえでお粗末だったことがわかる。それによって意味のあ

「投票より参加の場を」 世論調査に見る政治参加の姿勢

総理府が毎年実施している世論調査(社会意識調査)に「国の政策への民意の反映方法」というのがある。2011年のデータを見ると、「自覚して投票する」を「参加できる場を広げる」が上回っているのが目に付く。 国民の意識は、すでに形式民主主義から参加型民主主義に変わっていると言える。 「参加できる場を広げる」は、「政治家が国民の声をきく」「政策に関心を持つ」についで三位となっている。 他の項目の割合が長年あまり変わっていないのと比べ、「投票」と「参加」のシェアは、20数年にわたってゆっくりと、一方は低下し、他方は上昇してきた。 両者の順位が逆転したのは2008年。いつの間にか日本人の民主主義観は、投票から参加へと変化してきたことになる。 http://www8.cao.go.jp/survey/h21/h21-shakai/images/z28.gif ついでながら、高齢者ほど参加への意欲は低い。参加意欲のピークは30代で、その後世代が上がるに連れ低下する。民意の反映方法として参加を挙げる割合は、70歳以上では30代の三分の一以下の7.8%まで縮んでしまう。反対に高齢世代ほど投票を重視する姿勢が顕著だ。 http://www8.cao.go.jp/survey/h21/h21-shakai/images/z27.gif