投稿

ウクライナ和平の創造的なアイディアとは

 ケニア国連大使はロシアの侵攻を批判し、アフリカ諸国もウクライナ同様に人為的な国境と民族対立に苦しんでいることを指摘し、次のように述べています: 「私たちは人種・民族・宗教・文化など、いかなる理由であれ、民族統一主義や拡張主義を拒む」 「それは国境に満足しているからでなく、平和のうちに築かれる偉大な何かを求めたからだ」 現実にはアフリカは多くの民族紛争に苦しみ、民族統一主義、拡張主義の火種は消えていません。それでも、アフリカの多くの紛争克服の努力からは、ウクライナに平和をもたらす実践的な教訓があるに違いありません。 それ以上にアフリカの現代史で重要なのは、ケニア大使が述べた「平和のうちに築かれる偉大な何か」への希求なのかもしれないと思いました。ウクライナ戦争を終わらせるにも、実務的な教訓を超えた、まだ見ぬ偉大な何かへの希求というと大袈裟ですが、創造的でしかもこの地域の人々の魂に響きくアイディアが求められるでしょう。 https://news.yahoo.co.jp/articles/a20eec16e02e1d88fd383d67224d332777b9c20b

「民族紛争」としてのウクライナ侵攻: 「アフリカの教訓」はあるか

 ウクライナとロシアの関係については何も知りませんでしたが、ロシアの侵攻後いろんな記事や論文をつまみ読みしていくと、アフリカでお馴染みの「民族」紛争と似ているところがあると思うようになりました。 とりわけ、ロシア系とウクライナ系のカップルが周囲からの憎しみの対象となっているという報道に心が痛みました。西アフリカで同様のケースをみてきたからです。 と言うわけで、アフリカの民族対立の見聞をもとに、ウクライナとの類似点を考えてみました。 まずすぐ目につくのは、政治家が権力を取るために「民族対立」を煽る点です。 国内に民族問題がある時に政治がなすべきことは対立を緩和し、同じ国民として安心して暮らせるように努力することです。ところが、アフリカでは政治家が支持を広げるために民族対立を煽る例があります。ウクライナでも同様のことがおこなわれていたことを知りました。 そしてアフリカの最悪の事例のように、ウクライナでも対立は過熱し国内の武力衝突に発展していました。 次に、アフリカでは敗者が選挙結果を受け入れず、街頭行動で結果を覆そうとする事例が見られます。ウクライナでも実力で政権を転覆することが常態化していたようです。悪政による選挙や議会への信頼失墜が先なのか、野党のルール無視が過ぎたのか、そこは私には判断できません。 最後に、外部の勢力が、自分の利益のために国民の分裂を図る政治家を操ってきた点です。アフリカでは周辺国や域外大国がこうした邪な行いをし、場合によっては武力介入することもあります。 ウクライナでは、アメリカとロシアが双方の政治家を直接間接に支援し、対立を煽ってきました。そしてロシアは武力侵攻に訴え、アメリカやEUがウクライナ政権に大々的な武器援助をする事態になっています。 なお、ロシアの主張は国境を越えた民族統一主義ですが、これはアフリカでは「禁句」です。(アフリカでは民族と無関係に国境が引かれたために、各グループが統一を主張すると危険なため、アフリカ諸国は国境の尊重で合意しているからです)。 ではアフリカとの類似性があるなら、アフリカにはウクライナ戦争を終わらせる教訓はあるのでしょうか。考えてみたいと思います。 アフリカの紛争を研究している方々に、ご意見を伺いたいと思います。

ロシアのウクライナ侵攻:日本はどうすべきか考えてみました

  ロシアのウクライナ侵攻について、どうも日本のメディアはアメリカのプロパガンダをおおむ返しで繰り返している感じがします。さらに悪いのは日本政府がアメリカの情報を鵜呑みにして政策を組み立てていることです。 この戦争は広く「情報戦争」と言われていますが、これでいいのかなあと疑問に思います。 他方で、これに反対する人もいますが、多くの主張がロシアのプロパガンダそのものなのもおかしなことだと多います。 双方とも一方の主張は全て嘘で、「証拠」とされるのはみなフェイクだと言い合っています。 わたしはこの地域の政治には全くの素人で「とにかく勝手に国境を越えて侵攻したのはロシアが悪い」と思うのが精一杯です。 さて、日本政府は一体何をすべきなのか?少し下がって頭の体操をしてみようかとお思います。 これについて二つのオプションを考えてみました: 一つは、ここでは仮にタカ派オプションと言っておきましょう。日本政府の姿勢であり、マスコミの論調もこれにほぼ一本化されています。一言で言うと、「国際ルールの崩壊を食い止めることが最優先である。同じようなことが起こらないように、ロシアに懲罰を与え、敗北に至らしめることが必要だ。」と言うものです。 勇ましいですね。確かにそれなりに筋が通っています。でも、こうした主張にはかなりのリスクがあります。 まず、ほんとにロシアを屈服させることができるのでしょうか?残念ながら「できる!」と言ってる人はいないように見えます。 次に、そうなると双方の犠牲者は際限なく増えそうです。長期化すればウクライナは焦土と化す恐れが十分あります。 やや大袈裟に考えると、ヨーロッパの他地域に戦争が拡大し、核戦争が誘発される恐れさえ、否定はできません。そこまで行かなくとも、世界が敵対的なブロック化し、世界経済が大きく停滞するのは避けられそうもありません。 つまりリスクは相当に大きいですね。悲劇に泣く人は(すでに数百万のウクライナ人が難民となっています)さらに増えることは確実です。 タカ派でなければハト派的なオプションはあるのでしょうか。今のところほとんど聞こえてきませんが、考える価値はあるでしょう。 と言うことで、少し頭をひねって観ました。小さな頭なので、大したことは出てきません。みなさん、お知恵を拝借できればありがたいです。 まず最優先の目標は、犠牲者を最小化し人権を守ることにな

「ドライブ・マイ・カー」 インターナショナル版を観ました

 長いけど飽きずに楽しめました。 映画の大きな骨組みはこう言うことらしいです: 人間関係に踏み込まない男がいます。 主人公は妻との関係を失います。しかも彼女は突然死するので、関係を回復する手立てはありません。その男が、現実から逃げる自分の弱さのために妻と心を通わせることができなかった、さらに妻を死なせてしまったと自覚する、そういう骨組みだと思います。   タイトルは、ドライバーとの車中の会話が重要な役割を果たすことから来ていると思われます。   心の恐れを直視することで自己回復するという「フロイトっぽい」作りは、ハリウッド映画の定番です。アカデミー受賞は、米国人に「わかりやすい作り」と、映画の非ハリウッド的なテクスチャーの組み合わせが決め手だったのかなと推測しました。   テクスチャー(というか肌触りというか) では、どんなテクスチャーだったのか、わたしの印象を記します:   全体にとても静的でダイナミックな動きは見られません。画面のフレームは固定的で、カメラは引いた位置からの撮影が中心です。観客は感情の動きでドラマを追うのが普通ですが、それを嫌っているかのようです。   同様の印象は演技にも現れており、情動を見せいないようかなり抑制的です。台詞は翻訳文のように生硬で、棒読み風に発声されます。普通の会話のように感情を読む手がかりを与えません。   監督は、「人の本当の気持ちは言葉の外にあり、聴いてもわからない」と言ってるように、私は受け取りました。テキストはそれとして重要だけれど、心の動きは「話してる言葉」とは別なのです。コミュニケーション全体の内容は、会話を聞いている私たちはもちろん、二人の間でも、時には当人にも、わからないのです。   ハリウッドの俳優は、感情を(自覚しない心の深層も含めて)、表現するよう訓練されています。そういう演技はここでは求められていないようです。   戯曲の「本読み」でセリフを棒読みする練習をさせたり、複数の言語で交互に語られる舞台を見せたりしますが、これも(テキストとしての)言葉では人間はコミュニケーションしていない(あるいはできない)という世界感にピッタリな設定だと思いました。   そして主人公は人との関係に距離をおき、異常なエピソードさえ突き放して心を乱

神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈

  長年、外国から来た友人に、得意げに京都の寺社を案内してきました。ところが、この本を読んでショックを受けました。 私たちは何を拝んでいるのか、それが明治以前とはいかにかけ離れているのか、全くわかっていなかったことを知りました。 「仏教は極楽往生、神社 = 神道は現生利益」とか「この神社はナントカのミコトを祀っている」とか知ったふうに解説していたのが恥ずかしくなりました。 今私たちが目にする神社と寺院は、明治新政府が人為的に作り出した風景なのですね。みなさんはご存じだったでしょうが、廃仏毀釈の語は聞いたことがあっても、わたしは無知でした。 この本は、民衆の視点から明治の神仏分離とはなんだったのか、そしてその現代への影響を冷静に叙述しています。 ドラマの主役は激動の時代に心の拠り所を求める民衆です。先の見えない時代にあって、民衆は時に寺院の破壊に、別の地域では仏教を守るために過激化することもありました。 そして、新政府(キリスト教対策と国民統合の方策を求める)、国家神道家(原理主義宗教国家を目指す)、便乗する神官、巻き返しを図る僧侶などの思惑がぶつかり合い、今日の宗教の風景が形作られるまでを、この本はわかりやすく説明してくれます。 特に驚いたのは、民衆に一番身近な祠や社も、一部は天皇神話の神を祭るものに衣替えしたものの、その多くは破壊されたという記述でした。 近年、神社を訪れる機会が多いのですが、名目上の祭神と本来の神、寺とのかつてあったつながり、この地から追われ忘れられた神や霊のことを、そして中央政権とそこに暮らす人々の関係を考えるようになりました。 神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈  ( 岩波新書   黄版  103) https://www.amazon.co.jp/dp/4004201039/ref=cm_sw_r_cp_api_i_FJWBANW182NXSDT0AVCG

旅をしてものごとが立体的に見えてくる

イメージ
あちこち旅をしていると、物事が立体的に見えてくることに気がつきました。 例えば、人形浄瑠璃の話をします。今日、徳島の人形浄瑠璃館(徳島県立阿波十郎兵衛屋敷)を訪れました。 ここでは人形浄瑠璃の実演を見せていただき、また阿波の人形浄瑠璃の歴史について学ことができました。 若い頃人形浄瑠璃を初めて見た時は、全く理解できない世界で、「こういう文化もあったのか」と感じた記憶しかありません。「点」としてその映像と音を受け取っただけでした。 人形浄瑠璃館では、徳島に富をもたらした特産の藍が、人形浄瑠璃の独特の発展をもたらしたことがわかりました。時間軸が見えてきたのです。藍の生産地を訪れたからこそ、見えてきたことでもあります。 また、四国山地が農村浄瑠璃を発展させたことも知りました。空間的な要素です。四国の山は険しく、農村を回る浄瑠璃一座もやってこなかったからです。 さらに、浄瑠璃の三味線は紀元前の中国を起源として沖縄から伝えられたものであることも、初めて知りました。私の中で人形浄瑠璃の時間と空間は今後も広がり続けるでしょう。 最後に、浄瑠璃の復興のために多くの人が努力し、また報われつつあることも嬉しい驚きでした。時間と空間に加えて、未来へのベクトルもまた、形を見せているのです。 昔、点でしかなかった人形浄瑠璃は、時間と空間の奥行きを広げ、さらに未来に向けて動き続けるダイナミックな存在として、今の私は感じることができま

「リコメンド」はみない。心も頭も凝り固まるから

 ネットサービスの売りはリコメンドです。 「この本はあなたにおすすめ」 「こんな曲がお好きでしょう」 「こちらの商品はいかがですか」 事実、私の好みのツボを突いたリコメンドがすくなくありません。好きなものを勝手に見つけてきてくれます。新曲や新発売の商品の中からAIが選んでくれるので、モノ探しの手間が大いに省けます。 労せずに私の身の回りには私好みのモノが集まってきます。 これってなかなか良い! ところがある日気がついたのですが、この便利さがくせ者というか罠というか、なかなか要注意です。 好みのモノに囲まれているということは、新しい刺激がないということでもあります。例えば、同じ傾向の本を読み、好みの主張や情報にだけ浸かっていると、視野は狭まり知識の分野は限られ、考え方まで偏ってきます。 音楽だって同じです。聴いてるのが同じようなテンポ、曲調の曲ばかり、いつの間にか懐メロも増えています。 要するに年寄りくさくなります。 リコメンド機能を使うのは最低限にして、なんでも自分で探し回るのがやはりいちばんのようです。思いもかけないものを見つけ、自分の感性をいつもアップデートし、知らない知識に刺激を受ける、そんな開かれた心と進化する頭を維持したいものです。